平衡感覚
港町のタルトゥースで、何か物思いに耽っているように地中海をじっと見つめているラガドの写真がある。ラガドが羽織っているのは、私の黒いコートだ。ダマスカスから学生たちとピクニックに行った時のことで、その写真を撮る何分か前にラガドは水際で足を滑らせて尻餅をついた。ラガドのジーンズが濡れたので、私がコートを貸したのだった。
遺跡の町スウェーダで撮った写真の中には、何が写っているのかさっぱり分からない一枚がある。また別の日に行ったピクニックの時の写真だ。撮ったのはラガドで、そのことは他の学生たちもはっきりと覚えている。私たちは教会の遺跡に入り込んで、何枚も写真を撮っていた。足場の悪い中で、ラガドは私たちをフレームに収めようと二、三歩下がり、そのまま後ろに転がって私たちの視界から消えた。その瞬間にラガドはシャッターを切ったから、当然写真は激しくぶれた。
ラタキアも地中海に面した街だ。私たちはその海で水上バイクに乗った。ラガドたちの卒業旅行の時で、「乗りたい」と最初に言い出したのはラガドだった。「海に落ちるんじゃないか」と誰もが思った。ラーメズが同乗することになったが、この二人だけは操縦をインストラクターに任せることにした。それでも不安で、半分は期待もあったが、私たちは暫く浜辺で二人の様子を見ることにした。誰もラガドの平衡感覚を信じていなかった。沖に出たところで、案の定ラガドはバランスを崩し、ラーメズを道連れにして、どぼんと海に落ちた。泳げないラーメズが泳げないラガドを必死に助けて、何とか二人で水上バイクに這い上がった姿を思い出す。
「ラガドが、日本にいる間に富士山に登りたいって言ってる」
四年生が修了した後の夏休みのある日、ラーメズがカシュクールのアパートに来て言った。成績が優秀だったラガドは、日本の文部科学省の奨学金を得て千葉大学に一年間留学することが決まっていた。
「止めさせないとな」
「そうだよな、先生」
「タルトゥースで滑ってスウェーダで転がってラタキアで海に落ちたラガドだぞ」
「俺が一番よく知ってる」
「富士山何メートルあると思ってるんだ?どこまでも落ちて行くぞ」
ラガドは、いつも穏やかに落ち着いた声で話す。知的で、基本的には所作も優美だ。第一印象でラガドに少々抜けているところがあるとは、恐らく誰も思わない。ただ、私たちは知っていた。ラガドは、シリアで私が誰よりも長く一緒に時を過ごした女子学生だった。
「あの頃のシリアの話」第二章 学生たち/答
スウェーダ
ドゥルーズ派の人々が多く住むシリア南部の町。ビザンチン建築の遺跡が多い。シリア人のホスピタリティー(おもてなし)は世界随一と言われるが、サフワットによるとスウェーダの人々は見知らぬ旅行者も自分の家に泊めてもてなすらしい。そのためこの町にはホテルが一軒しかない。スウェーダに知り合いがいながらホテルに泊まると言えば、恐らく相当怒られる。りんごとぶどうの栽培でも有名で、スウェーダの家では美味しいりんごを食べ、ワインを飲むことができる。ドゥルーズ派の人々は、アルコールを口にする。
「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。
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