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彼时的叙利亚

一本一个日本人写的关于几个叙利亚人的故事,一本五十三个中国人一起翻译的书。


在叙利亚爆发内乱之前的三年间,即2007到2010年,我在大马士革大学的日语系教书。我基本每天都和学生们在一起度过。《彼时的叙利亚》这本书就是我追忆与学生们平淡无奇的日常生活而撰写的。

在我离开叙利亚之后,从2011年以来因被卷入战争而遭受各种各样经历的学生们迄今为止传达给我的话语也记录在了这本书里。

本书记录的均是与叙利亚政治无关的、毫无任何影响力的普通叙利亚人的事。

然而我想把他们的话语、他们的状况传递给离叙利亚很远的地方的人们。


梗概


BLOG《彼时的叙利亚》


あの頃のシリアの話

執筆期間 2016年11月18日(まえがき)から2017年7月15日(あとがき)


これはシリアの騒乱が始まる前、2007年から2010年までの三年間、ダマスカス大学の日本語学科で教師をしていた私が、毎日のように学生たちと共に過ごし、たわいのない話をしていた日常の日々を思い出して書いたものです。

そして、私がシリアを去った後、2011年以降、戦争に巻き込まれ様々な経験をすることになったあの頃の学生たちが、今まで私にどんな言葉を伝えてきたのかを書いたものです。

これは、シリアの政治に直接関わるような立場にいる人たちの話ではなく、影響力もない、シリアの普通の人たちの話です。

しかし私は、この人たちの言葉、この人たちの状況を、シリアから遠く離れたところにいる人々に伝えたいと願いました。


概要


BLOG「あの頃のシリアの話」

Theatre

ナム Numb

構成・製作・演出

2005.5.27-29 篠崎倉庫(神戸)


港湾施設として造られたコンクリートの空間の剥き出しの倉庫の壁に、言葉が映し出される。

コーランの一節、新約聖書の一節、生物兵器に関する記述、化学兵器に関する記述、ウランに関する記述。

四本の柱と鉄と砂で創られた舞台空間に、出演者が一人存在する。言葉を発することはない。

作品は、神のことばに置き去りにされた、人間の姿を表す。


「演出家がこういう舞台をつくらねばならない時代は不幸である。

観客がこういう舞台を見なければならない時代は不幸である。

だが不幸な時間を共有しながら、わたしたち人間とは、なんと深く希望のためにつくられていることか、 と驚きを感じたことも確かである。

わたしたちはその夜、ひとりの演劇者の誠実な思索と懸命な表現を暗澹たる気持ちとともに眺めながら、 それでも時間が着実に希望へ歩んでいることをそっと確信したのである。

わたしたちはその夜、新しい精神へ進んでいく小さな洗礼に立ち会った。

まるで葬送の儀礼のような、しかし心のこもった生誕の予祝に立ち会った。」

(批評誌 シュプリッターエコー)


Katastrophe

脚本・演出

2003.2.8 京都芸術センター


「Catastrophe 2002」から更に脚本を改訂し、京都の能楽師、大鼓方と再び組んで発表した作品。

新たにモダンダンサー藤田佳代とパフォーマー手﨑友代を招聘した。


「執拗に死のイメージが紡がれる。 すでに死んだもの、今死につつあるもの、そして多分これから死のうとするものも。

これはもはや一人の人の死ではない。これまでに殺された命の総数、これから殺される命の総数、 つまり世界そのものの死なのである。」

(神戸新聞)


Catastrophe 2002

脚本・演出

2002.8.4-10 京都芸術センター

伝統芸能と現代の出合いを考える京都芸術センターの企画「継ぐこと・伝えること」の番外編。

公演に先立ち、演出家、出演者、スタッフによる公開ミーティングを行い、五日間の共同制作の後、 試演会という形で発表された。

サミュエル・ベケットの「カタストロフィ」を鶴岡が翻案。能楽師、大鼓方、女優が参加した。 


燐の膜

脚本・演出

2000.3.31-4.2 グストハウス(神戸)


神戸のギャラリー・グストハウスに集う現代アーティスト達の展覧会企画「展開Ⅵ - AT YOUR OWN RISK」参加作品。 


「黒のカーテンで四方を覆い尽くした閉塞(そく)的な空間で、出演の建元聖子とますみともこは、不動のまま、 対話だけで、それも互いに微妙にズレる対話だけで舞台を進める。

『私は死んでいるの?』

それが最初のせりふであった。

短い文節を絶妙の呼吸でつないでいく硬質の対話。それは連綿と続く自問自答のようでもある。 意識と無意識との交錯のようでもある。個としての自分(自我)と、自分の中に入り込んでいる世界(超自我)との、 深い裂け目のようでもある。」

(神戸新聞) 


モノオペラ ハムレット

脚本・演出

2002.4.20 神戸新聞松方ホール


脚本執筆中に9.11テロが起こった。

実体の無いものを盲信し、思考を空虚な言葉の下に停止させ、 人を殺す。その現象を実際に対立する二つの原理主義に重ね合わせて、 鶴岡は提起しようとした。

ハムレットは何故斯くも亡霊を信じたのか。ハムレット自身も、また周囲の誰もそれを問わない。 本質的なコミュニケーションは亡霊が語った復讐という言葉の下に、全て失われて行く。

本質的なダイアローグがそこになかったが故の、これはモノローグである。


An Exile on Jupiter

脚本・製作・演出

1999.10.22-30 ハドソン・ギルド・シアター(ニューヨーク)


「寓の木星」の脚本を鶴岡自らが改訂翻訳し、新たなキャストとスタッフでニューヨーク公演を行った。

 

「禅的な不条理劇というアメリカ人の観客がいるかもしれないが、それは、 むしろ生の深淵の実体に触れた孤独なイマジネールが生んだ、宇宙的詩劇の初端かもしれない。」

(ヨミウリ・アメリカ)


寓の木星

脚本・演出

1999.1.22-23 ルナ・ホール(芦屋)


「After That Platform, and It‘s Quiet」の演出で、ニューヨークの劇評家から 「沈黙の深みに埋まったような生命の精の具現化を冷静さと温もりで提出した、若き才人の出現」 と評された鶴岡が、日本に戻り、製作期間に一年以上を掛けて公演した。

作品は従来の演劇作品とは異なる画期的な手法で演出された。 世界中で表現活動を続ける現代アーティスト榎忠が、多量の鉛を溶かした舞台美術を展開。 スペイン・日本で活躍するフラメンコ舞踊の東仲一矩、狂言の世界から茂山あきら、舞踊家エメスズキなど、 異質の様式を確立する表現者達が、舞台上に揃った。

現代人の罪の意識と感覚の喪失を描き、「人間の条件を問う本格悲劇」と評された作品。


After That Platform, and It's Quiet

脚本・製作・演出

1997.7.9-13 ワン・ドリーム・シアター(ニューヨーク)


「ソの次の音」の公演のため日本に帰国していた鶴岡が、再びニューヨークに戻り、自らの脚本を製作、演出した。

キャストは、百二十名以上の応募者の中から、書類選考、オーディションを経て三名が選ばれた。

ニューヨークの前作「言葉なき行為」に続き、ジム・ヘンソン・プロダクションの ジェームス・ジョウキンがセット・デザインを担当している。

死後の世界に於いて、生前の記憶を取り去られる人間の姿を静かに描いた作品。 これにより「メタシアターの個性的な完結を見せた」と評された。


ソの次の音

脚本・製作・演出

1996.8.31-9.1 シアター・ポシェット(神戸)


鶴岡による日本での初プロデュース作品。

脚本はその前年、ニューヨークで「言葉なき行為」 の演出に入る以前に書き上げられていた。

グループ・イカロス、劇団どろ他、神戸、大阪の多数の団体、個人の協力を得て、製作された作品。

音響、音楽を一切使用せず、セットは舞台上手に竹が一本立っているだけというブラック・ボックスで、 出演者はほとんど動かず、とりとめのない会話を交わす。

ストーリー、場、時間、キャラクターの設定はなく、言葉と言葉の間だけを注視する鶴岡演出の世界が展開した。


言葉なき行為Ⅰ

言葉なき行為Ⅱ

製作・演出

1996.3.5 ワン・ドリーム・シアター(ニューヨーク)


1996年、ニューヨーク大学演劇文学科を卒業した鶴岡がサミュエル・ベケットの二作の無言劇を製作・演出。

鶴岡は同大学で演出をヘレン・ホワイトに師事し、在学中はハロルド・ピンターの作品を演出していたが、 卒業後、この二作品で初のプロデュース公演を行った。

出演したナンシー・シュワルツは、大学内のオーディションで鶴岡と出会い、 ピンター作品にキャストされていた。この無言劇では、クラウン・ムーヴメントを学んでいた彼女のテクニックが生かされた。

同じく出演のトリシア・パオルキオは、ヘレン・ホワイトに師事した鶴岡の元クラスメイト。 その後ブロードウェイの舞台で活躍した。

スタッフには、ジム・ヘンソン・プロダクションでテレビ番組のセットを作っていたジェームス・ジョウキンが参加した。