反対
あの頃、日本へ行きたいと誰よりも強く願っていたのは、シャーディだったと思う。
「シリアの一番嫌なところって、何だ?」
私はシャーディに聞いた。
「コネがないと、何もできない。能力を生かすチャンスもない」
成績が優秀だったシャーディは、三年生の課程を修了した後、日本学生支援機構の奨学金を得て大阪大学に一年間留学した。私は二〇一〇年一月に日本へ一時帰国して、その時大阪にいたシャーディと会っている。短髪だったシャーディが、ぼさぼさの長髪に変わっていた。
「ジーザスか、お前は」
敬虔なイスラム教徒のシャーディの見た目がイエス・キリストみたいになっていたことが、私にはおかしかった。
「日本は散髪代が高い」
そう言って、シャーディは笑った。
二〇一〇年八月、シャーディは留学を終えてシリアに帰国した。その一ヵ月後に私はシリアを去った。
翌年シャーディは大学を卒業し、徴兵される前に、留学していた頃の友だちに会うために日本へ来た。取得したのは観光目的の短期滞在ビザで、滞在は十日間の予定だった。
「シリアに帰るつもりだった」と、シャーディは言う。
しかしダマスカスにいる家族はシャーディの帰国に反対したらしい。戻れば何が起きるか分からない。可能な限り日本にいた方がいいというのが家族の意見だったそうだ。
それからシャーディは、一度もシリアに帰っていない。大阪で仕事を探し、就職して短期滞在ビザから就労ビザに切り替え、転職し、日本に居続けた。今は帰化が認められて、日本国籍を持っている。
二〇一二年一月、私は中国から日本へ帰った。大阪で、また短髪に戻っていたシャーディと会い、シリアの入国ビザを申請するために東京へ行くと話した。シャーディが最初の仕事に就いた頃だ。
「先生がシリアを思ってくれる気持ちは、本当に嬉しい。俺は、先生以上にシリアが好きな人を知らない。もしかしたらシリア人よりシリアが好きなんちゃうかと思うよ」
シャーディは、今ではほぼ完璧に大阪弁を使いこなすが、その頃はまだ標準語と大阪弁を交ぜて話していた。
「ちょっと違うな。私はシリアが好きだと思ったことはない。シリアで会った学生たちが好きなんだ。学生たちの家族も好きだった。好きな人がいっぱいいた。学科長は嫌いで、他にも嫌なのはいたけど」
「そうやね。よく喧嘩してた。でもな、先生。今シリアへ行って、もし先生に何かあったら、俺たちは一生後悔する」
「無茶をするつもりはないよ。ダラアにはもちろん行けないし、カミシリにだって行けないだろう。それはあきらめる。ダマスカスから、今回は出ない」
それでもシャーディは最後まで賛成しなかった。
東京では、早稲田大学に留学したマハムードが私を待っていた。
「先生、すみません。管理人さんに見つかると何か言われるかも知れないので、ここから入ってください。本当はこの時間、部外者の立入りは禁止なんです」
夜行バスで早朝東京に着いた私は、マハムードが住む学生寮の部屋にベランダの柵を乗り越えて入った。
「先に言ってくれよ」
一階で良かった。
「だいじょうぶです。暫く、横になって休みますか?コーヒー、飲みますか?」
「ちょっと休ませて」
そうは言ったが、結局一睡もしなかった。私はマハムードと、ずっと話していた。
「先生、ミオサンと息子さんのことをもう一度考えてください」
マハムードはそう繰り返して、私がシリアへ行くことに反対した。それでも私は、シリア大使館に行った。
「あの頃のシリアの話」第三章 再会/入国ビザ
「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。
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