引っ越し

ダマスカスの外れをアルハイサムと何時間も歩き回った。その時はまだ二人で同居することになるとはどちらも思っていなかった。その日アルハイサムは、ただ私のアパート探しを一生懸命に手伝ってくれていただけだ。不動産屋に行く訳ではない。家賃が安そうなアパートが建ち並ぶ地区に行って、「この辺りに空き部屋がないか知りませんか」と聞いて回る。

漸く探し当てた六千シリアポンドのアパートは、カシュクールという名前の地区にあった。

「カシュクール?」

その地区を他の学生たちは誰も知らなかった。学生たちが初めて足を踏み入れて口々に言った、その言葉をそのまま借りれば、そこは「シリアでも最低の地区と言っていいところ」だった。

ごみが至るところに積み上げられていた。道はどこも舗装されていなかった。地区一体の地面が掘り返されたままで、その工事が進んでいる気配はなく、長らく忘れ去られているようなところだった。そのことで、何の責任もないアルハイサムが他の学生たちに責められていたことを申し訳なく思った。カシュクールのアパートに決めたのは私だ。

「本当に、ここに住むんですか?」

学生たちが何度も私に確認した。

「そんなに酷いかな」

他に選択肢もなかったが、私は強がりではなく本当に酷いとは思っていなかった。私にとって、スラムのイメージはもう少し悪い。カシュクールはそれほどでもないと思っていた。

隣国イラクから戦乱を逃れてシリアに来た人たちが多く住んでいる地区だった。他に外国人を見たことがない。私にはイラク人もシリア人も同じように見えるので、つまり見るからに外国人というのは、その地区に私一人だけだった。おかげで目立った。

私が住み始めてから、アメリカの女優で慈善活動家でもあるアンジェリーナ・ジョリーが、一日だけだがカシュクールまでやって来たと、噂に聞いた。

「ここはアンジェリーナがわざわざ来るところなのか?」

アルハイサムに聞いた。

「そうみたい」

実はアルハイサムも私と同じように、この地区がそれほど悪いところだと思っていなかった。


カシュクールに引っ越す前日、私は美央を空港まで見送りに行った。チェックインカウンターがあるゲートの先には、チケットを持っていなければ入れない。私たちはロビーで暫く抱き合って、別れた。珍しく、美央が泣いていた。

美央が今でも覚えているアラビア語は「ガーリー・クティール」だそうだ。「値段が高すぎる」という意味のアラビア語で、よく使っていた。

タクシーには大抵メーターが付いていない。美央は一度、法外な金額を要求した運転手に対して、完全に頭に血が上ってしまったことがある。その頃は距離から考えて大体タクシー料金の目安は付いていた。しかし交渉しても、その運転手はなかなか値段を下げなかった。激昂した美央は、突然後部座席から運転手に向かって紙幣を投げ付けた。これくらいが妥当だろうと思う金額の紙幣だった。そして勢いよくドアを閉め、一人で出て行ってしまった。助手席には私が残っていた。運転手は、驚いた顔で私を見ていた。

そんなことを思い出す。美央は一年半、私と一緒にシリアで暮らした。

一人で空港のゲートに向かった美央が、係員と二言三言話して、すぐに戻って来た。

「飛行機、三時間くらい遅れるって。まだ中に入れないみたい」

「コーヒー、飲もうか」

三時間ほど一緒に空港ロビーの喫茶店でぼんやりと過ごし、最後に私たちは「じゃ」とだけ言って、別れた。 


「あの頃のシリアの話」第一章 断片的な記憶/引っ越し


「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。

Daiho Tsuruoka's Works

鶴岡大歩の作品を紹介します