漢字

「先生、漢字が最近、ゴキブリに見えてきた」

三年生の頃のラハフが言っていた。日本語学科の学生たちは四年間で約千五百の漢字を学習する。ひらがなとカタカナは二、三週間もあれば使えるようになるが、漢字はそうはいかない。常用漢字として日本で選定されている漢字は二千百三十六字あるそうで、これを日本の国語教育では中学卒業までに学習することになっているらしい。シリアの学生たちはその約四分の三を四年間で学ぶ訳だから、ラハフの言葉も頷ける。試験前にノートに漢字を書き連ねていたら、それがひっくり返ったゴキブリに見えてきてもしかたがない。


かく言う私も漢字には自信がない。読みは問題ないが年々書けなくなっている。それでも日本語教師かと言われたら謝るしかない。中国では黒板に書いた誤字を学生に指摘されて、慌てて直して、謝ってばかりいる。

シリアではそんなことがなかったかと言えば、そうでもない。

「臭い」という言葉の読み方と意味を教えていた。「悪臭」や「異臭」という言葉も教えた。

「先生、その漢字、間違っていませんか?」

指摘してくれたのは、ヌール・アルジジャクリーだった。学生たちの手元には、漢字と語彙の教科書のコピーがあった。学生たちは国際交流基金が日本語学科に提供した教科書をコピーして使っていた。

「あれ?そう?」

私は自分がホワイトボードに大きく書いた文字を見た。上半分が「白」で、下半分が「大」だった。

「上の部分、白じゃなくて、線がもう一本、『自分』の『自』だと思います」

「あれ?」

全く恥ずかしい話だが、私は二十年以上「臭」の上半分は「白」だと思っていた。

「そうだったかな?」

私は教室に必ず辞書を持って行く。その場で急いで調べた。

「ヌールが正しい。皆、ごめん。私はずっと、上は『白』だと思っていた。ありがとう、ヌール。おかげで私はもう一生、この漢字を間違わない」

「いいえ」

ここまでなら良かったが、私は知らず知らずに余計なことまで言ってしまう悪い癖がある。

「ありがとう。これからこの漢字を見たり書いたりする度に、きっとヌールのことを思い出すよ」

ヌールが、絶望的な顔をした。

「先生、私を『臭い』という言葉で思い出すんですか?」

「ごめん、ごめん、ごめん、違う、違う、違う」

あれから八年以上経ったのに、私はまだはっきりとこのことを覚えている訳だから、ヌールがそれを知ったら、きっとまた絶望的な顔をする。


「あの頃のシリアの話」第一章 断片的な記憶/漢字と英語


「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。 

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