トルコ

二〇〇九年の十二月、私たちはトルコへ行くことになった。日本語能力試験の会場がシリア国内にはなかったからだ。この試験は世界の六十以上の国と地域に受験会場があるそうだが、シリアの学生たちにとって一番近い会場は、トルコの首都アンカラだった。日本語学科からは、十人くらいが二級の受験のためにアンカラへ行くことになった。一級を受験するのはヌールだけだ。私はもちろん試験とは関係ない。しかし皆と一緒にトルコへ行きたいと思った。

「トルコへ行くなら、イスタンブールにも行きたい」

最初にそう言い出したのは、ラハフだ。ラハフは日本語能力試験を受けない。試験には全く興味がなく、完全に観光目的だった。双子の姉のラガドが受験のためにトルコへ行くなら、「私も行く」のは当然で、せっかくだからイスタンブール観光をしようというのがラハフの提案だった。

私とヌールがその提案に乗った。私とヌール、ラガドとラハフの四人は、皆より先にダマスカスを出て、イスタンブールへ行ってからアンカラへ移動し、皆と合流することにした。 大学を休めるのは一週間だけだった。その間にダマスカスからトルコに入って最初の町アンタキア、アンタキアからイスタンブール、イスタンブールからアンカラ、そしてアンカラからダマスカスという行程を私たちは全てバスで移動した。計五十時間近く、バスの中にいたことになる。お尻の痛みには耐えた。

イスタンブールでは、焼き鯖をフランスパンで挟んだサンドイッチを食べた。金角湾の畔で売られている。久しぶりに食べる美味しい魚だった。地下宮殿バシリカ・シスタンは幻想的で、そこにはメドゥーサの顔が彫られた石があり、ヌールはその前で暫く自分も石になって固まっていた。ケバブも当然食べた。世界で最も美しいモスクと言われるスルタン・アフメト・モスク(ブルー・モスク)にも行った。私たちはシリアの流儀に従って特に何も決めずに歩いていたが、今思えばしっかりイスタンブール名物を食べ、ちゃんと観光地を回っている。 ブルー・モスクの裏庭で、私たちは写真を撮った。そこは石のテーブルがあるだけの殺風景な場所だったが、私たちはそこで休憩をしていて、何となくここでも写真を撮ろうということになった。

「先生、三猿をしましょう」

そういう提案をするのは、決まってヌールだった。石のテーブルの後ろに立ち、ラハフが見猿、ヌールが言わ猿、私が聞か猿になって、その写真をラガドが撮った。私たちを見ていた地元の人が、そこは棺の安置台だと教えてくれた。物を知らないのは恥ずかしい。


「あの旅行で、一番楽しかったのはどこだった?」

私はラガドに聞いたことがある。

「全部。最初から最後まで。あの四人だったから。だけど一番嬉しかったのは、アンタキアの最初の夜かな」

「私も、そうなんだ」

ダマスカスからアンタキアまで十一時間バスに乗り、夜遅くに到着した。私たちはホテルに入って、ぐったりしていた。お腹もすいていた。

「作って来たから、食べよう」

そう言ってヌールが手作りのピザとレモンケーキを出してくれた。私たちはホテルの部屋の床に座り込んで、一緒に食べた。

「レモンケーキはちょっと酸っぱいけど、先生だいじょうぶ?」

「うん、美味しい」

トルコはグルメ大国で、トルコ料理は世界三大料理の一つと言われている。そもそもこの旅行は、ラハフの「トルコへ行ったら私は食べる。食べるチャンスがあれば、必ず食べる。食べたばかりでも食べる」という言葉で始まった。けれども、今も一番に思い出すのはアンタキアの夜の食事だ。

「ヌールが持って来てくれた。あれが一番、嬉しかった」

私はラガドにそう言った。


「あの頃のシリアの話」第二章 学生たち/リヤドから来た学生


「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。

Daiho Tsuruoka's Works

鶴岡大歩の作品を紹介します