救護隊員
留学を終えてシリアに帰国したラガドは、ダマスカス大学の日本語学科で在校生たちに日本語を教え始めた。日本語教育の専門家は、シリアにもう誰もいなかった。国際交流基金もJICAもとうに撤退していた。
「先生がどうやって私たちを教えていたか、一生懸命思い出してる」
そんなメールが来て、私はシリアで授業中に行っていたアクティビティーを全てまとめて中国からラガドに送ったことがある。私はシリアに帰れなかった。
「あの時、『山に登ります』というジェスチャーをしたハザールは、手足をじたばたするだけで、溺れているようにしか見えなかったね」
「ラハフは野球の審判なのに、笛を吹く真似をしていた。だけど誰も野球を知らないから、不思議にも思わなかったんだ」
「ヌール・マーシャとヌール・アルジジャクリーが夫婦で、ハイサムとハザールとヘバが子どもたちをやった。あれは本当の家族にしか見えなかったね」
「数詞を覚えるリズムゲームが一番苦手だったのは、ラガドだよ」
「単語カードを急いで読み上げなければならない時に、ハザールだけが一人興奮してキャーキャー言い出して、失敗するとしゃがみ込んでいた」
「ラガドが映画に関するクイズを出題すると、その答は必ずラガドが大好きな『ゴッドファーザー』なんだ。『私が今から説明する場面は、何という映画の一場面でしょう』って、皆がもうそれを知っていたから、クイズにならなかった」
私は、そんなことを付け加えて書いた。思い出せば、切りがなかった。
「爆発が起きて、現場に向かいます。そこがどのくらい危険なのかは、予測できません。ただ、そこへ向かうだけです。私たちはロボットではないから、もちろん、怖いです。ただ選択肢は、行って行動するか、逃げるか、その二つしかないのです。私たちは行きます」
「危険な場所に向かう時、私が最初に思うのは、家族のことです。私が傷ついたら、家族はどう思うだろうか。そこでは、私個人のことを考えます。けれど、現場に着いて傷ついた人を前にすれば、考えるのは、私には今、彼らを助けるために何ができるかということだけです」
「初めて、悲惨な光景を目にした時は、その晩、眠れなかった」
イギリスの放送局BBCのインタビューに、ラガドはこう答えていた。ラガドは、ダマスカスで日本語学科の助手を続けながら、シリア・アラブ赤新月社の救護隊員になっていた。私は中国で、そのインタビューを見た。
「先に救護隊員になることを決めたのは、ラハフの方」
ラガドは私にそう言った。
「私は、ラハフだけで行かせられないと思った」
初めて凄惨な現場に向かった時のことをラガドは私に話してくれた。
「私とラハフの支部は別々で、爆発があったのは、ラハフの支部に近い場所だった。だけど、とても手が足りないから、私がいた支部の方にも救援の要請が来て、そこに向かうことになった。現場に、ラハフがいた。私と目が合った。何も話さなかった。だけどその時、私が最初に何を思ったのかと言うと、ラハフを連れて帰りたいということだった。傷ついて倒れている人たちのことを真っ先に考えないといけないのは分かってる。私たちはそのためにいるんだから。だけど先生、本当はね、ラハフにこれを見せたくないと思った」
ラガドがこの話をしたのは、救護隊員を辞めてシリアを出た後だ。
「あの頃のシリアの話」第二章 学生たち/六年
「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。
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