半分

シリアに滞在するのは二週間の予定だった。夏に日本で息子が生まれた。私は武漢の仕事を一年で辞めて日本へ帰ることに決めていた。帰国してから日本のシリア大使館で入国ビザを取得して、シリアに行くつもりだった。そしてシリアから帰った後、美央と息子と三人で日本で暮らそうと思っていた。

年が明けて一月、中国から日本に帰国した。美央は息子と一緒に、神戸で私を待っていた。私は三人で住むための部屋を見つけ、賃貸契約を済ませた。その部屋で、これからシリアに行くことについて、初めて美央の顔を見て話した。

「行くなと言っても、行くんでしょう?」

「うん。行きたい」

「ニュースで見てるだけじゃ、シリアのことは分からない。だからダマスカスだけって言われても、生きて帰って来るか来ないかは半分半分のつもりでいる」

「うん」

「だから、行く前に生命保険に入って、お金だけはどっさり残して。子どものために」

「分かった」

そして私はシリアの入国ビザを取得するために、東京へ行った。


その頃、私は日本の友人からメールを受け取っている。彼女とは旧知の間柄だった。「元気にしていますか」というメールを半年か一年に一度はずっともらっていた。

返信に私は「シリアに行って、大切な人たちに会って来ます」と書いた。彼女から、またすぐにメールが届いた。

「あなたは、誰と共に生きようと思っているのですか」

そう書かれていた。

「奥様は日本に置いてきぼりなのですか。自分一人の命ではないことを分かっていますか。自分だけは、必ずどこの国に行っても生きて帰って来ると言えますか。ご家族は理解してくれていると考えますか。日本にいてほしいです。あなたには成すべきことがあるのかも知れませんが、私は、そう願います」

成すべきことと確信を持って言えるほどのことは、私にはなかった。私にはそこまでの自負心はない。ただ、約束があった。「また必ず会いに来る」と、私はシリアの学生たちに約束した。シリアがどのような状況になっていても、その約束を守りたいと思った。「会いたい」と言ってくれる人に会うことだけが、自分にできることだと思っていた。

日本の友人からのメールは、もう少し長かった。厳しい言葉が並んでいた。私は彼女が言うことも理解できた。しかしどうしても言いたいことがあった。

「なぜこのメールには、ただの一言もシリア人の気持ちについての言葉はないのですか」

返信に、私はそう書いた。

「私の妻や家族の気持ちを考えてくれている。私が、生きて帰って来るかも分からないような国へ行くことを心配してくれている。しかし私の友人たちは、そのような国に住んでいるのですよ。今もそこで生きているのですよ、毎日。日本の人々にとって、シリアはただ、遠すぎるのですか」

美央と息子のことを考えない日は一日もない。けれどもこの一年、シリアに住んでいる学生たちのことを思わない日だって、一日もなかった。


その頃日本には、マハムードとシャーディがいた。私は東京にいるマハムードに連絡した。

「夜行バスで朝早く東京に着くから、シリア大使館が開くまでマハムードの部屋で休ませて」

その直後に、大阪にいるシャーディからもマハムードに連絡があったらしい。

「先生が明日そっちに行く筈だから、マハムード、お前が説得して先生がシリアへ行くのを止めろ」

私は帰国してすぐに大阪でシャーディと会っていた。シャーディは、最後まで私がシリアへ行くことに反対していた。


「あの頃のシリアの話」第三章 再会/一年後


「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。

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