日本語学科 2
博多の街をラガドと二人で歩いていた。ラガドが日本語学科のことを教えてくれた。二〇一五年、大学は日本語学科から教室を取り上げた。新しく設立されたロシア語学科がそこで授業をすることになった。日本語学科には教室が二つあったが、どちらもだった。日本語学科は、六人も入れば一杯になる窮屈なオフィスで授業を続けた。新入生は、二〇一三年からもう受け入れていない。
「小さい方の教室のドア、壊れていたな」
「そう」
「開けるのに、コツが要るんだ」
「そう。何回もこうやって、こうやって」
千葉大学に一年間留学したラガドがシリアに帰って日本語学科で教え始めた時、私は「あのドア、まだ壊れてる?」と聞いた。ラガドは「そのまま」と教えてくれた。
「懐かしかった。あの時は本当に、そのままで」
「大学は結局最後まで直してくれなかった?」
「ずっと、そのままだった」
「ロシア語学科が直していたら、嫌な気がするな」
シリアを取り巻く今の国際情勢を考えると、本当にロシアが直しているかも知れないと思った。
その夜、私たちは博多駅の定食屋で一緒に焼き魚の定食を食べた。
「先生は、自分の幸せを考えている?」
「どうして?」
「私、変なことを聞いたかな。ごめんなさい、気にしないで」
「ラガドは私に何を聞いたっていいよ」
「先生がシリアにいた時は、先生に何かあったら、いつでも私たちの誰かがいた。何もなくても、一緒にいた。私とラハフが行けない時は、あのうるさいラーメズやハイサムがいて、先生がだいじょうぶだと分かると、安心した。先生が笑っているのを見れば、嬉しかった。今も先生は、中国で一人じゃないと思うけど」
「そうだね」
「だけど今、私たちは行けないから」
「私は、考えたことがあるよ。世界のどこかに私に会いたいという人がいてくれて、その人に会いに行けるということが、一番幸せなことだと思うんだ。だけど世界中で、本当にたくさんの人が、それができない。できない理由はたくさんある。死んでしまえばもうできないし、国境を越えられなくてもそうだ。お金がなくてもそうで、そういう人がたくさんいる世界は、幸せじゃない」
駅の改札で、私たちは別れた。
「次は、先生の恋愛の話、教えてね」と、ラガドが言った。
「いいけど、いい話は一つもない」
そしてもう一つ、その夏ラガドが私に言ったことを覚えている。
「私は、先生が作る演劇に、ずっと出たいと思ってた」
「あの頃のシリアの話」第三章 再会/日本語学科
「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。
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