サッカー熱
二〇〇八年の北京オリンピックと二〇一〇年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会は、どちらもシリアで見ていた。
オリンピックは、シリアではほとんど誰も興味がない。第一、出場選手が少ない。ロシアは五百人近い選手団を送り込んでいた。アメリカはそれよりも多かった。それがよりによって、開会式のシリアの入場順がロシアの次でアメリカの前だった。二つの大国に挟まれて、シリア選手団は入場して来た。
「五人?六人?」
「十人は、いませんね」
「何の選手?」
「ボクシングかな」
学生たちもよく知らないらしい。
「ボクシングは、人気あるの?」
「いや、別に」
シリアのスポーツと言えば、それは紛れもなくサッカーだ。シリアの代表チームが特に強いという訳ではない。プロリーグもあるが、実際「シリアは強いの?」と聞けば、シリア人は口を揃えて「シリア代表の話はするな」と言う。ワールドカップでは、大体アジア二次予選で敗退するらしい。
シリア人は、熱烈なイタリア代表チームのファンであったり、ドイツ代表やブラジル代表のファンであったりするのだ。家族や親戚がイタリアやドイツやブラジルにいる訳ではない。それでも熱狂的に応援している。FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権は、シリアでも異様なまでの盛り上がりを見せる。フーリガンまで出るらしい。
二〇一〇年のワールドカップは、ジャラマナ地区のピエールの家に行って、予選大会から本大会まで何試合も見させてもらった。カシュクールの私のアパートにもテレビがあって、衛星放送のアンテナを屋上に設置していたが、それで全試合を見ることはできなかった。ピエールの家はワールドカップのために有料スポーツチャンネルと契約していたので、全試合を見ることができたのだ。
ピエールの家には豪快な親父さんがいた。
「ああ、先生いらっしゃい。こっち座って。さ、一緒に見よう見よう」
大きく手を広げて、そう言ってくれた。
サッカーを見ながら、親父さんは顔を赤くしてテレビに向かっていつも何か激しく怒鳴っていた。アラビア語を全く理解しない人でも、それが「何やってんだ、このうすらとんかちが」に近い意味であることくらいは分かる。試合が終わると親父さんはすぐに友だちに電話をかけ、数々のプレーを振り返り、熱心に試合を分析していた。その声も、相当に大きかった。
本大会の日本代表の試合を見せてもらおうと思って、ピエールの家に行った時だ。その親父さんが、信じられないほど意気消沈していた。私を見ても、かすれ声で何か一言二言呟くだけだった。
「どうしたの?」
「さっきからずっとこの調子」
ピエールが教えてくれた。親父さんは、イタリアのファンだった。イタリアが、その日グループリーグの最下位に決まっていた。
「あの頃のシリアの話」第一章 断片的な記憶/サッカー熱
衛星放送
シリアでは、アパートの各家庭で衛星放送のアンテナを購入し、屋上の空いている場所を探して勝手に設置する。少し高い位置からアパート群を眺めると、アンテナが密集している屋上がたくさん見えるのはそのためだ。傘の上下は逆だが、巨大なシメジみたいだと思っていた。
「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。
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