アレッポ
人口で言えばシリア最大の都市は首都ダマスカスではなく、北部の都市アレッポだった。二〇〇八年に美央が撮った何枚かの写真がある。中世の城砦だったアレッポ城の写真と、その頂上部から見下ろした街並みの写真だ。
アレッポの街並みも、どこまでも淡褐色だった。中東の町には外壁がこの色で塗装されている建物が圧倒的に多い。
私はその写真を何度も見る。もうそこに写っている街は、どこにもない。
二〇〇八年、アレッポでシリア日本語スピーチコンテストがあった。私も日本語学科の学生たちと一緒に出場者の応援に行った。その年、上級部門に出場して優勝したのはラガドだ。
コンテストの一ヶ月ほど前、スピーチの原稿を書いていたラガドが、私のところに相談に来た。
「先生、結論の部分が書けない。どうしようか」
私は何度も原稿を読んで、ラガドに答えた。
「結論のようなものは、書かなくてもいい。分からないと言えばいいよ」
父親が、自分の娘を助けられない。末期の腎不全だった娘に、自分の腎臓を移植することができない父親の話だった。その話をどこかで聞いたラガドが、その父親の気持ちを考えていた。
「私たちは答が分かりません。でも、生きています。正しい答が分からないままにも、生きています」
ラガドは原稿の最後をそう締めくくった。
コンテスト当日、ラガドがスピーチを始めた時、会場は静まり返った。私語を慎む必要をほとんど感じたことがない筈のシリアの学生たちも、日本語が少しも分からないシリア人の観客も、その時だけは、静かにラガドの声を聞いていた。ラガドも静かに語り続けた。
私と美央は、その晩十人くらいの学生たちと一緒にホテルに泊まって、翌日アレッポ城に登り、街を散策した。それがアレッポの思い出だ。
「分からないままにも、生きています」
それは生体腎移植の話で、今のアレッポとは関係ない。けれども、私は写真を見て、いつもこのラガドの言葉を思い出す。
「あの頃のシリアの話」第一章 断片的な記憶/記憶の中の風景
アレッポ
シリア北部の商業都市アレッポは、アラビア語では「ハラブ」と呼ばれる。「乳」という意味だ。アレッポと言えば、かつて日本では石鹸だけが知られていた。オリーブオイルと月桂樹オイルで作った無添加石鹸で、頭までこれ一つで洗えた。アレッポ石鹸は日本で買えば高級品でも、シリアで買えば百円もしないので、私もずっと使っていた。最後はどろどろになる石鹸だった。二〇一二年から内戦の最激戦地となり、二〇一四年には変わり果てたアレッポの惨状が国外メディアによって伝えられた。
シリア日本語スピーチコンテスト
ダマスカス大学日本語学科と日本研究センター、アレッポ大学学術交流日本センターの三機関が参加して毎年ダマスカスで開かれていた。シリアで日本語が学べる機関は、この三つしかなかった。二〇〇八年のみ、アレッポで開催された。
「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。
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