二〇一一

二〇一〇年の夏に、ヌール・アルジジャクリーと私はどちらもシリアを去った。しかしそれからもずっと連絡を取り合って現在に至る。サウジアラビアにいるヌールから、近況報告の長いメールが二、三ヶ月に一度届く。日本語の長いメールで、始まりは「マルハバ(こんにちは)、先生」であることが多いが、「鶴岡の旦那」だったこともある。ムードによって使い分けるらしい。それに私も、長い返事を書く。

果たされていない約束が、ヌールと私との間にある。

「次に会う時は、シリアで」

二〇一一年以降、私たちはメールの最後に、お互いにそう繰り返し書いてきた。


ヌールは、シリア人だ。生まれも育ちもサウジアラビアだが、その国の国籍はない。ヌールの両親はどちらもシリア出身で、何十年も前にそれぞれの家族と一緒にサウジアラビアに移住した。サウジアラビアでは、例え何年そこに住んだとしても、国籍を取得することはできない。その地で生まれた子どもたちにも、国籍は与えられない。いつまでも外国人であり、何かあれば国外退去になる可能性もある。サウジアラビアの国立大学は外国人を受け入れない。ヌールはそれが理由で、シリアの大学に入っていた。


「『いい時にシリアを出たね』と、先生も言われますか?」

帰国したヌールは、周りからそう言われていた。そのことを「嬉しくない」とメールに書いていた。シリアの争乱に巻き込まれずに済んだことを言われている。私も日本で周囲の人々から同じように言われてきた。そのことを「良かったね」と言われても、「そうですね」という返事がヌールにはできないし、私にもできない。それが例えヌールのことを心にかけている人たちの言葉であっても、私のことを何かと心配してくれている人たちの言葉であっても、その人たちの気持ちは分かっていても、私たちは「そうですね」とは言えない。違うのだ。ヌールも私も、二〇一〇年にシリアから離れたことを少しも良かったと思っていない。私たちにとって大切な人たちがそこにいた。理由はそれだけではない。自分が生活していた場所のあまりにも悲惨な状況が連日伝えられて来る中で、自分が助かったことを本当に良かったと思えるほど、私たちは非情ではない。


「あの頃のシリアの話」第二章 学生たち/巡り合わせ


「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。 

Daiho Tsuruoka's Works

鶴岡大歩の作品を紹介します