防人歌
四年生の後期、ハイサムは卒業論文に困り果てていた。卒業論文は国際交流基金の教師たちが担当することになっていて、理由は忘れたが、私は蚊帳の外に置かれていた。しかし実際は、何人もカシュクールの私のアパートに何度も原稿を持って来ていた。
ハイサムは最初、余裕綽々だった。
「だいじょうぶ、先生。アラビア語の詩と日本語の詩について書くから」
そう言って暫く顔を見せなかったが、担当の教師に初稿を全否定されて、それから連日私のアパートに来るようになった。
「困った、先生」
初稿を読んだ。九割方、自分の好きなアラビア語の詩を取り上げ、それが如何に素晴らしいかを書き連ねていた。日本語の詩も二、三取り上げていたと思うが、それが誰の詩だったのか覚えていない。しかし少なくとも、ハイサムの書いたものは比較論文ではなかった。
「気持ちは伝わるけど、これは論文じゃないな。まず、テーマがない」
「全部、最初から書き直しなさいって言われた」
「それはそうだ。その前に、何だ、これ?」
論文の最後のページを私は指で示した。
ハイサムは参考文献を表記しなければならないところに、「私の知識」と書いていた。
「アラビア語の詩のこと。いつどこで知ったかなんて覚えてないから、『私の知識』」
「おもしろいな。だめだけど」
タバコを何本も吸いながら、ハイサムと論文のテーマをどうするか考えた。アラビア語の詩と日本語の詩と言っても、当然様々で、何に焦点を当ててどう比較すればいいのか見当もつかない。アラビア語の詩について書くのは、あきらめることにした。
「万葉集は、どう?」
私は単なる思いつきで言った。
「奈良時代だった?」
「そう。ハイサムは歴史も好きだろう?万葉集には、天皇とか貴族とかの歌だけじゃなくて、名もない人たちの歌がたくさんある。そっちに絞って、奈良時代のそういう人たちの生活環境を書いてみれば?」
「調べてみる」
そもそもシリアでは日本の本が手に入らない。どんなテーマを選んでも、資料を探すのはインターネットしか方法がない。致し方ないが、それで論文を書けと言われても、私だって困る。しかしハイサムはそれから万葉集の歌を集め始め、何とかそれらしい形にまとめて、担当教師に提出した。
それから三年半後、朝日新聞社の記者がダマスカス大学の日本語学科を訪ねて、教師と学生たちの思いを記事にした。二〇一三年十二月五日の朝刊で、記事の見出しは「砲撃下の日本語授業」「大学に着弾、十五人犠牲」「シリア内戦」となっている。ハイサムはその頃、日本人が誰もいなくなった日本語学科で、教壇に立っていた。私がかつて教えていた学生たちが、卒業後に日本語学科の助手という立場で、後輩たちに教えていた。福岡に行く前のラガドもそうだった。日本語教育の基礎的な知識や能力もない。誰も、どう教えていいか分からない。自分自身の日本語にも自信がない。日本語学科は、そういう形で存続していた。
ハイサムは新聞記者の前で、万葉集の防人歌(さきもりうた)を諳んじたらしい。
「韓衣(からころも)裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」
防人とは、古代北九州の防備に就かされていた兵士のことだ。「服の裾に取りすがって泣く子どもたちを置いて来たのだ。あの子たちに母親はいないのに」
カシュクールのアパートで話し合い、書き直し、何度もそれを繰り返して、漸くハイサムの卒業論文は完成した。韓衣の歌は、そこにあった。
「私には、この歌はシリア人の心を詠んだように思えます」
新聞記事には、取材に応えてハイサムがそう言ったと書かれていた。
私は日本でこの記事を読んだ。シリアに帰ることをこの二年間ずっと考えてきた。そしてハイサムの言葉を読んだ時、私は、自分がシリアでしてきたことには意味があったし、これから帰ることにも、意味があると思えた。
「あの頃のシリアの話」第二章 学生たち/防人歌
「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。
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