島唄 2

二〇一一年、私は中国にいた。武漢の大学で日本語を教えていた。教室には、またギターを持って行った。そのギターは、武漢で買った。

「今度の文化祭で、私たちは『島唄』を歌いたいと思っています。先生、ギターを弾いてくださいませんか」

武漢の学生たちが私に言った。私はここでも「島唄」を教えていた。

「ステージで歌うの?」

「はい。クラスの女子が、皆で歌います」

「じゃ、私もステージに上がってギターを弾くの?」

「お願いします」

因みに武漢の大学の日本語学科は九十パーセントが女子学生で、その話をシリアのアルハイサムたちにしたら、心底羨ましがっていた。

私のギターは、相変わらず人前で自信を持って弾けるようなものではない。謙遜ではない。「だいじょうぶかな」と思ったが、それでも結局この話を引き受けたのは、それが「島唄」だったからだ。

文化祭は五月だった。舞台裏に白いロングドレスを着た学生たちが集まっていた。お揃いのステージ衣装を着ているというだけで、もうシリアの学生たちとはかなり違うと思った。レンタルしたそうだ。武漢の学生たちは、自分たちで歌に振りも付けていた。

「先生、何かありますか?」

「何かって?」

「ステージに上がる前に、私たちに何か、アドバイスとか」

「そうだね」

シリアではこの歌を教えるのに一ヶ月以上かかった。中国の学生たちは一週間で歌えるようになった。それからも自分たちで練習して、かなり上手になっていた。アドバイスはなかった。私は、自分がコードを間違わないかどうかの方が心配だった。

「中国に来る前に私がシリアにいたことは、話したね。シリアでも、『島唄』を学生たちに教えて、一緒に歌ったんだ。シリアの学生たちも、この歌がとても好きだった。だからこの歌は、私にとって特別な歌なんだ」

私はその時、武漢の学生たちにそんな話をした。

「この二ヶ月、シリアは大変なことになっている。皆もニュースで見たかも知れない。私が教えた学生も、今ダラアという町で、電気や食べ物や飲み物がない生活をしているって、そうメールに書いていた。この歌の歌詞の意味を教えたね。沖縄の話をして、夕凪は、海の近くで夕方暫く風がなくなることだということも」

学生たちは静かに、私の話を聞いてくれていた。沖縄の地上戦に思いを馳せて作られたこの歌には、「このまま永遠(とわ)に夕凪を」という歌詞がある。

「今日、この歌を歌う時、シリアのことを思ってくれないかな」

「分かりました。先生」

そして、私たちは一緒にステージに上がった。

私は奇跡的にコードを一箇所も間違えなかったので、調子に乗って後日シリアの学生たちにこの時の動画を送った。すると次々と感想が送られて来た。

「上手だ。信じられないくらい上手だ」

「合唱はシンプルで美しくて、衣装はエレガントで、それに比べて私たちは、はっはっは」

「俺の方が上手い」

三つ目の感想はナシーブからだった。そしてナシーブは、「もう一度先生と歌いたい」と書いてくれていた。

「先生は俺よりギターを弾く才能がない。もっと練習して」

ムダルだった。ムダルも、最後にこう書いていた。

「先生、お願いがある。シリアに帰って来てほしい」

シリアの情勢がここまで悪化の一途を辿ることになるとは、まだ誰も想像できなかった。


それから半年後、私はシリアに行くことについてラーメズに相談していた。

「ダマスカスなら、まだだいじょうぶだ。だけど先生、シリアに来てもダマスカスから出たらだめだ」


「あの頃のシリアの話」第三章 再会/一年後


「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。

Daiho Tsuruoka's Works

鶴岡大歩の作品を紹介します