カミシリ
アルハイサムの家族は今もカミシリにいる。アルハイサムは家族と会えないままでいる。私がカイロへ行った時で、もう四年以上になっていた。しかしオンラインで通話をすることは時々できると、アルハイサムは話していた。
「ワサンもハーニーも、先生のことよく覚えてる」
アルハイサムの妹と弟の名前だ。あの頃は、二人とも小学生だった。弟のハーニーはもう声変わりしているらしい。
「ハーニー、ごつい男になってきた」
「かわいかったのに。アルハイサムみたいになってしまったか」
「そう」
カイロにいる間に、私もできればアルハイサムの家族と話したいと思った。しかしカミシリでは、いつインターネットが使える状態になるか分からなかった。
カミシリとつながった。アルハイサムが私を呼んだ。アルハイサムのお父さんはいなかったが、コンピューターの画面に懐かしいお母さんの顔が映っていた。
「ミオも元気?」
「ええ、美央も元気です。日本で息子を厳しく育てています」
「厳しいのが一番」
お母さんは、私と美央に子どもが生まれたことを知っていた。そのことをとても喜んでくれていた。
「覚えていてね。もし何か困ったことがあったら、いつでもカミシリに連れて来て。私たちが育てるから」
お母さんが言った言葉をアルハイサムが訳した。
それは、六年以上前にカミシリで聞いた言葉と同じだった。カミシリの家で、ワサンとハーニーが親戚の子どもたちと走り回っていた。私は美央と一緒に、それを見ていた。あの時に、お母さんが言ってくれた言葉だ。
「ずっと覚えています。シュクラン(ありがとう)」
それ以外に、私は何も言わなかった。何をどう言っていいか、分からなかった。
「あなたたちは一体、どういう人たちなのですか」
私の気持ちを無理にでも表そうとすれば、きっとこんな疑問をぶつけることになる。
「今、困っているのはあなたたちじゃないか。困っているなんて言葉では済まない。もう何年も、苦しみ抜いてきたのはシリアの普通の人たちじゃないか。ISはすぐそこまで来ている。それなのに、遠く離れた他の人のことを考えるのですか」
口に出しても、きっと最後までは言えない。
「それが、シリア人なのですか」
私がカイロでアルハイサムのお母さんと話した半年後に、カミシリでイスラム国(IS)による自爆攻撃があった。二度の爆発で五十人以上の死者と百五十人を越える負傷者が出た。アルハイサムの実家は爆風で一部損壊したが、家族は無事だった。
「あの頃のシリアの話」第三章 再会/シリア人
カミシリ
トルコとの国境があるシリア北東の町。イラクとの国境も近い。ダマスカスからバスで九時間かかる。クルド人が多い。シリアの最北だが夏の気温はシリアで最も高くなり、日中最高気温が四十五度を記録することもある。アルハイサムによると麦の生産量がシリア一であることの他には、特に何もない。
「あの頃のシリアの話」は、今出版社を探しています。このBLOGでは原稿の一部を紹介しています。
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